昭和のおもいで

まるで、私がその頃に生まれたかの様に思っているでしょ。ちゃうねんなぁ。筆者はれっきとした2桁生まれですよ。患者さん達のお話があまりに楽しくて盛り上がるので、了解を得て、載せることにしました。最近は父母の話も覚書しています。

れんげ畑 苗代の虫取り いなご取り 蜂の子 たがめの卵
しょっくん 志願兵 捕虜 プール

れんげ畑
れんげって、農家の人がわざわざ種を播いている、ってことは知っていた。でもなんでかって、あなた知ってた?ある日、患者さんが教えてくださった。

れんげは田んぼの肥やしになる.。
またれんげは、稲刈りが済んだ後の田んぼに種を播き、ちょうど5月の連休頃に刈り入れるそうだ。種を採る用のを残し、50cmぐらいに伸びたれんげは刈った後、軒先に干して乾燥させ、サイロに貯めていく.。羊や山羊や牛の冬の飼料(えさ)になるそうだ。

彼女は岡山県の農家の出身.。乳も牛より山羊の方がおいしかったらしい。家の屋根は竹で組んであり、いろりのすすがそこをとおって行くので、屋根を解体した時、とてもよい煤竹ができているらしい。また、30cmもの萱を葺いてあるので、雪の冬は温かく,夏は涼しくとても快適な家だったそうだ。新幹線の工事で立ち退きになり、今はもうないらしい。惜しいね。

私の幼い日の記憶には、れんげ畑にお弁当を持っていって食べたり、首飾りを作ったり・・・その頃は、ただ田んぼをきれいに飾る為やと思っていたの^o^/


苗代の虫取り
子どもが学校へ行く前にしたこと。2mぐらいの竹の棒を持つて苗代を右へ左へなでるんです。
そしたら、稲の葉の裏に卵産んでるのが見えるらしい。「髄虫」(ズイムシ)と呼んでた小さい蛾のことで、雨よりも晴れた日の方が良くわかる。卵から幼虫になれば竹でなでたらはねるから、さっと取って自分の袋にいれる。首から下げたその袋に毎日の卵や幼虫を入れ学校へ持つて行くと、先生が数をかぞえて表につけてくださる。そして一番の子どもには鉛筆やなんやとくれたそうだ。やはりおにいちゃんたちの方がうまかったそうだ。これが毎日の宿題。今の子どもと比べたら、うらやましいかぎり?

いなご取り

稲の葉を食べる虫を取って、人が食べた。運動場で炒ったり、佃煮にするらしい。とっても香ばしくおいしかったそうだ。今の「クギ煮」みたいなもので、しょうゆだけで味付けした。カルシウムが豊富で貴重な蛋白源だった。梅干と一緒に戦地に送ったらしい。また、家では、おふろを焚きながら、竹串にさした「いなご」をしょうゆで付け焼きしながら食べるのも、だしじゃこよりずつとおいしかったそうだ。農薬が無いから安全な食べ物だ。けどバッタは、かたくてまずいらしい。
「先生、そりゃイナゴぞなもし」…夏目漱石の「ぼっちゃん」にもでてきたよね。



蜂の子

 秋。昼間に蜂の巣がどこにあるか見当をつけておく。その方法は、花の蜜を吸っている蜂を捕まえ、胴のくびれたところに綿の糸を10pほどの長さにくくりつける。そうすると蜂は「えらい目に遭うた」とばかりに、一目散に巣に帰るらしい。
それをお父さんが、闇夜にたいまつ立てて、燻し出して取るるそうだ。竹の棒でつついて、幼虫を取り出す。それをご飯に混ぜて炊いたり、炒りつけたりして食べる。これがまたとてもおいしいらい。


たがめの卵
大人の親指ほどの中に、プチプチと米粒みたいな卵が70個ほど入っている。稲に産み付けているのを取るのだ。噛むと緑色の汁が出るが、鶏の生卵みたいな味がして、これもおいしいそうだ。
どれも自然食品ですね。もし今あったらとっても高い値がついてるやろね。



しょっくん
昭和40年代、大阪府大東市に住んでいた。田んぼが埋めたてられ、住宅地となったとこに建てられたその新しい家の前は、用水路だった。めだかも亀もフナもいた。しょっくんもいたよ。しょっくんとは食用蛙のこと。夜になるとグワーングワーンって鳴く。うなる?それを獲りに来る人がいた。で、それはフランス料理店で食べるらしい事を聞いていた。22歳のとき、なんとそれを食べる機会があった。鶏の足みたいなのにかぶりついた時、なんか味がちょっと違う.で「これ何?」「・・・フラッグ」「ウっ・・・」初めての経験は、鶏よりも淡白な味でした。ハイ。


志願兵
私の父は昭和4年生まれ。太平洋戦争の時は、16歳になったとき志願兵となった。あと半年戦争が長引いていたら、特攻隊として突っ込み、空のちりと消えていたはず。
でも山口県から大阪まで22時間かかって無事に帰ってきた。広島の原爆の2週間後だった。

とにかく3時間後に出発する列車に乗らなければ帰れる保証は無いといわれ、部隊から駅まで12kmを歩いた。大阪へ帰っても焼けて家が無いかも知れないので毛布2枚、鯖の水煮一缶、乾飯、米などいろんな物を配給されて担いでいる。
あまりに重いのと炎天下なので、途中お百姓さんの大八車を10人ほどでいろんな物を出し合い借りて,やっと何とかたどり着いたそうだ。
待っていたのは屋根の無い石炭車とくさい家畜用の車両。父達は石炭車の方に乗りこんだ。途中市街にくると爆撃にやられた線路が歪んでるのでスピードが落ちる、その時にいっせいに飛び降り、用を足してまた列車を追いかけ乗りこむ。
仲間の一人が「やっぱり俺も」と降りた時、列車は快調に走り出した。
「待ってくれー」「荷物は○○の駅で下ろしといてくれー」と叫んだ彼はその後いったいどうしたんでしょうね−。
でいつも話は終わる。平和な世の中がありがたい。息子はこの話を聞いた時17歳。どんな風に感じているのか。


捕虜 
父の釣り仲間に、7歳年上の友人がいた。無口な彼だが、お酒が入ると当時のことをよく話してくれた。
終戦前、彼はフィリピンの山奥にいた。とにかく大きなでんでん虫や蛙にヘビ、トカゲなど そこら辺りにいるものなんでも捕まえて食べた。でも塩が無い。塩が無いと気力も無くなるので、民家へ「ライス!、ソルト!」と襲撃する。そうすると次の日はアメリカとフィリピン兵に爆弾の嵐をふらされる。
そうこうするうち終戦になり、上空で何度も降伏を促すビラがまかれ、隊長以下皆でふんどしひとつになり、山を降りた。捕虜の服を着せられ強制労働。といっても、とうもろこしの種を播くのだ。が若い捕虜達はおなかが減って仕方ない。種を播くフリしてゴクンと飲み込むのでいつまでたってもろくに生えてこない。

半年ほど経ったとき、戦車の修理をアメリカ兵がやっていた。へたくそで見てられない。彼は「貸してみろ」とジェスチャーでし、溶接を上手にやってみせた。彼は兵隊の前は溶接工だからお手の物だ。「オー,ミスターヤマウチ!」と感激され、その時以来、アメリカの将校の服を与えられ、アメリカ兵と同じ食堂でなんでも好きな物を食べてよい、という事になったそうだ。
けど、半年後自分の部隊が日本に帰る時、彼だけは帰してもらえなかった。器用な腕と、後から後から降伏してくる部隊との通訳をさせられていたのだ。結局それから2年後にようやく帰らせてもらえた。で話は終わる。フィリピンでの捕虜時代の色んな話を聞かせてくれた。

私の父が息子たちにその話をしていた。「芸は身をたすく」や「文武両道」など、親が言ってもろくに聞かない子も少しは真剣に聞いていた。


爆弾あとのプール
戦争末期昭和20年の3月6月8月と大阪にも大空襲があった。
今の法務局のそばや造幣局のあたり、砲兵工場の付近は特にひどかったらしい。
で、爆弾が落ちた後は直径10mから15mぐらいの大きな穴(くぼ地)ができた。
爆弾が落ちた次の日は決まって雨。
家などが焼けて灰やすすの混じったどす黒い雨が1日降ったそうだ。
そして晴れた日は子どもたちは、そのくぼ地のプールみたいなとこで泳いだんですて。
子どもってたくましい。











トップにもどる